2019年8月28日水曜日

生け花で遊ぶ 1

 

庭の草花が繁茂している。
少しづつ伐り「投げ入れ」で遊ぶ。

お決まりの「あやめの葉」
ルドベキアの黒い蕊ぼうず
秋海棠 のピンク
南天の葉
名前はわからない細かい葉(左)

どれもが長持ちする葉ばかりである。
活ける楽しさは生活を浄化してくれるような気がする。
形は自然と定型化してきているが、
あやめの葉は真っすぐに立つのが美しいので、こんな形になってしまうのです。



新涼や朝の切り花二三本     みよ


2019年8月25日日曜日

黄色い西瓜

 

西瓜は秋の季語である。
季節は静かに移っているのだ。

黄色の西瓜は、どこか懐かしい。
この小玉西瓜は熟れ切って、刃を当てると自ずからパチッと割れた。
中心は水の塊のようだ。
赤い西瓜と違って、私は黄色には甘さを求めない。
黄色はただ西瓜の水を湛えてくれればよい。

固定観念はいつも潜んでいて、「海鞘」(ほや)を食べた時もそう思った。
最初に料理屋で食べた時、独特の匂いがしたので(ほや)とはこんな味がするものと思っていた。
ところが、
東北の大船渡へ行った折り、津波で何も無くなった波止場にプレハブの寿司屋があった。狭いカウンターで出された新鮮な「海鞘」に驚いた。
あの匂いがしないのだ。
それは海の爽やかな匂い、まるで海水を食べているかのようだった。

タイの果物「ドリアン」もそうだ。
(トイレでソフトクリームを食べている匂いだ)と他人は言う。
臭いというのが常識だ。
しかし深夜、道路に手押し車でもって来たもぎたてのドリアンを食べた時も驚いた。 あの匂いがしない。確かに慣れない果物の匂いはするが、いやではなく、ソフトクリームを食べているような滑らかさだけが印象に残った。

ドリアンは臭いという固定観念。
確かに古いドリアンの傷みかけた匂いはいただけない。
一度新鮮なドリアンを食べると観念も変わるだろう。

常に新しい目で物を見ないと俳句もできない。
顔を洗って新鮮な目で物事を見ることにしよう。
・・・といっても良い句はできないのですが。



万緑を天蓋にして石仏     miyo


2019年8月17日土曜日

無花果(いちじく)

 
 


無花果は、そのまま生で食するのは勿論だが、ソテーにしてみるのも又美味しさが増すというものだ。

調理に使われる果物は少なくないが、
この無花果のソテーはお勧めしたい。
口の中でとろけてしまうから
ゆっくり味わう暇もないくらいだ。

バターでソテーにし、仕上げに醤油を一滴たらしてみた。
これでデザートの出来上がりだ。




逢いたくて花火の下を駆け抜けて  美代


2019年8月11日日曜日

ローズマリー のリース

 

庭のローズマリーの繁りが大きく膨らんでいる。
切り取ってリースにした。
フェンネルの黄色の花をアクセントにして。
プレゼントにしようかなと考えるが
萎れて色褪せするだろうと思うと気になる。
私は色褪せしていく自然の様子を好むが、誰しもそうとはかぎらない。
リースとして飾られているほとんどが、造花や乾燥した花でつくられている。
作った時のままを維持していくのがリースの身上のようだ。
はたして、次の日には黄色の花は変色し、ローズマリーの葉先はまるまってしまった。
プレゼントにはしなくて良かったと思った。



八月や祈りいつしか孫のこと   美代



2019年8月8日木曜日

秋海棠(しゅうかいどう)

 
秋海棠、あやめの葉、紫陽花、紫蘭の葉
 


秋海棠、あやめの葉、紫陽花、南天、
フェンネル、ローズマリー、紫蘭の葉

 
2センチの糸トンボ


庭の草花を活けるのはうれしいひとときである。
花が無い時は、緑の葉だけの時もある。
いろいろな葉の形、色の濃淡、葉の大小、
それらを組み合わせるのが面白いのである。
いわゆる園芸種の花が無いのが特徴だろうか。
地味でざっとした生け花だ。

糸トンボの細かい種類はわからないが、
今日のは水色がついていない。
この前のトンボの相棒かな。




公園のベンチぽつんと鰯雲    美代